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準(新)四国の歴史

 江戸期におきましては、元禄時代とともに文化文政の時代は、平安の世にあって様々な文化が発展した時期でもありました。人々はお金を蓄えて、四国や西国、伊勢・熊野などへの巡拝を楽しんだのです。しかし、実現できる人はほんの一握りだったのかも知れません。そのため、日本各地には、その地方ごとに、地方ミニ霊場が出来上がっていったわけです。

「相模国準(新)四国霊場」もその一つです。特に相模の湘南地区は、参勤交代のメインルートに当たり、助郷と呼ばれる人足に借り出されることが多く、長期間土地を離れることが出来なかった理由もあるようです。

 

相模国札所の経緯

相模国鵠沼の浅場太郎右衛門の発願により、菩提寺普門寺の善応師とともに、茅ヶ崎、寒川、藤沢を中心とする湘南地区に八十八の大師札所が設けられました。

 記録によると、計画が始まったのが文化3年(1806年)で、各所の石像が彫られたのは文政3〜4年(1820〜1821年)であるので、およそ15年ほどかかったことになります。手順とすると、賛同を得た各所に講をつくり、掛け金を捻出し、実際に四国に行って札所の砂やお札などを持ち帰り、本場の霊場と何らかの関連のありそうな場所と組み合わせて札所を作るといった具合です。そのため、札所の番号は飛び飛びで、歩いて回る順とは異なります。

 

盛衰の様子

 札所は、弘法大師ゆかりの真言宗に限られてなく、他宗派の寺院、神社、お堂であり、単独で建てられた所もあるようです。往時には、各講からの参拝客で賑わったと言われます。特に彼岸の時期には出店が出たほどだとも言われます。ところが、この相模の札所は、明治の神仏分離令で、廃寺になったり、神社から分離される例も多く、また関東大震災で建物が倒壊したあと廃寺となった所も多く、不明になったり損傷したり、本家寺に集められたりと、受難の歴史をたどってきました。昭和30年代には、国土開発、道路拡張の波で移転先も判らなくなりだんだんと衰退し、その存在も忘れかけてきておりました。

 

現代の札所

 昭和50年代ころより、郷土史家樋田豊宏先生をはじめ丸山久子氏、三木洋氏など、札所や石仏に関心を持たれる方の調査や、普門寺住職川島弘之師のご尽力もあり、研究書も出版されるようになり、新聞でも取り上げていただき、次第に関心を持たれるようになり所在地も判明して参りました。そして、72箇所の場所に何らかの大師像が85像残っていることが確認され、不明のものは3像のみとなってきました。しかし、その場所はなかなか判りにくく、一般の民家内にあるところもあり、宝探しの様相を帯びています。それがまたロマンをかきたててくれるかも知れません。

 関心のあられる方は、どうかお訪ねください。

東準(新)四国の歴史 

東泉寺は59番、今治の国分寺から移した霊場です。つながりの理由を考えますと、共に薬師様のお寺という共通点があります。当寺のように曹洞宗でありながらも弘法大師像を祀る札所は比較的多く見られます。現在、東泉寺の大師石仏は、薬師堂内左に安置されていますが、台座は重い理由もあり、堂内に安置する際、靴を脱いで上がるように入口の脇に出ております。大師像は普段は施錠されていますので、参拝の際にはお声をかけてください。随時、拝観を受け付けています。

  ※附記 掲載している霊場一覧表は、江戸期に普門寺の僧によって作られた普門寺出発の順路記に基づくものを底本として、現在の所在地別に72箇所に編集し、現在の地図に落としたものです。 また、この資料は昭和58年発行の『相模国準四国八十八箇所』三木 洋著に拠るもので、その後の変動については調査していません。ご了承ください。