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東泉寺について

お寺の沿革

 開基は、天正18年(1590)の秀吉による小田原攻めの結果、東国を領した徳川家康の旗本、筧為春(かけひためはる)です。山号は巨木山(こぼくさん)、山門前の対の雌雄大銀杏があるためにそう呼ばれるようになったかは不明です。

 

 宗派は曹洞宗、鎌倉市植木龍宝寺の末寺。本尊は釈迦無牟尼仏。創建の年月日は不明ですが、為春が下飯田 を知行地としてからまもなく建立されたものと考えると、天正18年から起算しますと平成26年で 423年を数えます。

 しかし、伝承によりますと、前身の寺が境川沿いのやや南方、下飯田町490番地付近にあったとされ、天 正10年頃の川の氾濫で被害にあったため、移転再興されたとも言われています。現在でも元の地の一部は「 寺分」と呼ばれ、当寺の寺領となっています。
開山について、『新編相模風土記稿』では「中興の僧を寿鶴、宝暦元年6月3日寂す」とありますが、当寺 過去帳には『當寺開山遼国壽鶴大和尚、明暦元未6月13日示寂』とあり、二世、三世の寂年と交合すると、 風土記稿の記載は明暦の間違いと思われます。また、移転再興のことにより「中興」と風土記稿に記載された とも考えられますが、当寺の暦年位牌には三世に中興にの文字が付与されています。

 

また、現在地に東泉寺が開かれたのと同時期に、本郷地区の通称薬師藪(下飯田町1371番地)にあった 薬師堂も、同境内に筧為春によって移転されております。

  

 山門は、天明3年(1783)に11世春長義天大和尚の晋山の際に再建されています。平成5年に屋根替修復工事の時に、天明の飢饉、浅間山の噴火、風水害の様子などが、梁や肘木に多数書付 けられているのが発見されました。また、当時の俳人(松尾芭蕉門下)、美濃口春鴻の自筆と思われる句「人も 斯く老いて秋立つ眉毛かな」等、数点が書かれています。生家の美濃口家は上飯田本興寺の檀徒ですが、下飯田の名主をつとめ、江戸期の寺請制度中にあっては当寺の壇中として尽力いただいておりました。

 歴代の住職は、現在で28代にあたります。12世化龍白鱗大和尚は、様々な功績を残しており、後に大中寺の末寺である栃木県間々田の龍昌寺の 十八世となっています。当寺とのつながりについては不明ですが、続く十三世も龍昌寺の十九世となっています。その後、15世〜21世までは二年ずつの交替となっており、どういう消息であるかは分 かっていません。歴代の住職のうち九州出身の僧が比較的多いのですが、24世玉峰海州大和尚が豊前(大分県)から諸国を 回る際の通行手形が当寺には伝わっております。

 寺号額(本堂向拝前)は、明治31年、鎌倉円覚寺の釈宗演禅師の書によるものです。

以前の本堂は、大正12年の関東大震災によって倒壊し、昭和9年に当時の兼務住職、本寺龍宝寺31世大透宗勝大和尚を中心に再興され、現在に至っています。主な柱には裏山の松が使われています。昭和60年に銅版へと屋根替をし、平成10年に庫裏の新築と同時に位牌堂(兼宝物殿)を増築しました。